田口に残る養蚕農家・養蚕
 昭和時代には農家のほとんどが養蚕を行っていたが、現在は一軒もない。だが、当時を思い起させる建物は残っている。
 なお、塩原家住宅については、(48)塩原家住宅(塩原蚕種)をご覧ください。
(ア)橋滋信家
 江戸時代(天保年間)に建てられたと云われ、田口町に一軒だけ残る赤城型民家(※1)。茅葺屋根の上にトタンがかぶせてある。明治期より昭和の初め(桂三郎、愛作の代)まで蚕種製造業を営んでいた。現母屋の左に明治初期建築と思われる間口10間総2階建ての蚕室があったが今はない。
(イ)塩原つね(潤一)家
 明治19年建築という。間口10間の切妻瓦葺総2階建て造り、天窓は8間の一つ櫓。塩原家は明治期から蚕種製造業を行ってきた。昭和32年塩原蚕種(株)が設立されると潤一は監査役になった。
 原蚕種の養蚕飼育(タネオコ)は佐平家や潤一家でも行われたが、多くは会社と契約した社外の飼育分場で行われた。別棟の蚕室には当時使用された蚕種保管用の冷蔵庫やふ化用の電熱線を利用した加温室などが残っている。

(ウ)須川武則家
 間口6間の出し梁2階造り部分と3間ほどの居住部分がある。昭和30年代に改築したと云う。須川家では塩原蚕種(株)の委託により2齢までの稚蚕飼育を行っていた。
(エ)金子英雄家
 間口7間切妻瓦葺、出し梁造り、天窓は6間の一つ櫓。明治後期から昭和初期に見られる典型的な養蚕農家である。
(オ)塩原昭五家
 間口6間の切妻トタン葺き屋根、天窓は二つ櫓。塩原家でも塩原蚕種(株)の委託による稚蚕飼育を行っていた。
(カ)岩ア富雄家(昭和の家)
 大正元年に紋二郎が建てた。間口5間の切妻屋根3間の一つ櫓、出梁造り、1階かまど上の天井がすのこ状になっていて「いぶし飼い」(※2)を取り入れたものと思われる。
(キ)田口町公会堂(群馬社荷受所)
 昭和4年組合製糸群馬社と田口の共同出資で新築され、繭の集荷場、町の集会場として利用、今でも各サークルで利用されている。
(参考)右の絵は塩原友子画伯(※4)が描いた初代塩原総平家(友子画伯の生家)であるが建て替えられて今はない。
(※1)赤城型民家:茅葺屋根の桁行平(ひら)部分を切り落とした民家で、赤城南麓に多く見られた。(写真右・金子保五郎家)(現存しない)
 平(ひら)部分を切り落とし、そこに庇(ひさし)を付けたものは榛名型民家と呼ばれる。
(※2)いぶし飼い:永井流養蚕術で、江戸時代に火気は蚕に悪影響を与えると考えられ、涼しい場所で飼うのが正しいとされていた。群馬県では利根郡片品村の永井紺周郎・いと夫妻が広めた「いぶし飼い」という温暖育が明治初年頃から盛んであった。この方法は焚火で室温を上げ、蚕室内を煙で充満させるというものであった。紺周郎は妻のいとと共に県北部、中部で巡回指導を行った。門下生の日輪寺村の木村松太郎(※3)は南橘、富士見地区を中心に指導を行った。日輪寺境内にある松太郎顕彰碑(写真右下)には52名の「門人」の名前があり、田口では小池庄作、岩ア紋二郎の名が記されている。
 一方、佐波地方では島村の田島弥平が「清涼育」という養蚕法を完成していた。これは火力を極力使わず、換気に特に注意して湿気や暑さを防ごうというもので、蚕室内の熱を屋根に取り付けた櫓から排出するというものであった。
 また、高山村の高山長五郎が開発したのが「清温育」である。この方法は温湿度管理、蚕室の空気循環を重視した飼育法で、当たり外れなく一定の収繭量が得られた。高山社を通じて全国に広まっていった。
 塩原佐平は関根にあった研業社の協力で「温暖育」を村に導入、普及させた。これは常時火力を用いて補温するもので、飼育期間が短縮できた。
(※3)木村松太郎:(1854〜1913)日輪寺の人、南橘村村議会議員、日輪寺村区長、南橘村村長を歴任。
(※4)塩原友子:(1921〜2018)田口生まれの日本画家で、日本画院展や日展などにたびたび入選し、大学教授を勤め後進の指導・育成にと日本画発展に尽くされた。宝林寺の天井画も描いている。