女人講塚・角田無幻書の青面金剛・阿弥陀堂跡
  田口郵便局西の墓地の一角に女人講塚および青面金剛、庚申塔などがある。
 女人講塚の「講」とは、神仏を祀り参詣する同行者の集まりのことで、田口でも近年まで三峰講があった。女人講は女性どうしが集まる信仰の場であるとともに、日常生活の情報を交換する場でもあったようである。
 如意輪観音は、安産守護の菩薩として、特に女性を中心に信仰された。その像容は如意宝珠を持ち、右手を頬にあて、思惟と慈愛にみちた姿として親しまれてきた。
 角田無幻(※1)が揮毫したという青面金剛は年号から判断すると写真下に示したものと思われる。
 阿弥陀堂に関するものとしては、南無阿弥陀仏と刻んだ石塔があることから、おそらく阿弥陀堂には阿弥陀如来像があり礼拝(らいはい)していたのではないかと思われる。また、大日(だいにち)如来と刻んだ石塔もあり、阿弥陀如来の弟子と云われる大日如来像もあったのだろうか。
 庚申塔は庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことである。年に6回ある庚申の日(※2)の庚申講(※3)を3年18回続けた記念に建立されることが多く、塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれ、寛政12年(1800)と万延元年(1860)には多くの庚申塔が建てられた。

(※1)角田無幻(1743-1809)は、名を光旒(こうりゅう)といい、江戸時代後期の修験者で書家としても名高い。北群馬郡吉岡町の出で、後に勢多郡津久田村(現・渋川市赤城町)林徳寺の法嗣(養子)になる。さらに京都に上り、中国の書法を研鑽して一家を成し、京都で職業書家として活躍したが、しきりに上州に往来し揮毫(きごう)した。
(※2)庚申(こうしん)」とは、暦の十干「庚(かのえ)」と十二支の「申(さる)」の組合せの日のことで、同じ組合せは60日に1回、年に6回(まれに7回)ある。
(※3)庚申講(庚申待)とは、人の体内には三尸(さんし)の虫がいて、庚申の日の夜寝ている間に体から抜け出て、天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで、天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、天帝に報告できないようにした風習である。


女人講の如意輪観音像「天保七丙申歳三月吉祥良辰」(1836)
庚申塔「寛政十二庚申歳」(1800)
青面金剛塔「寛政十二庚申歳」(1800)
角田無幻が書いたものと思われる)
青面金剛塔「萬延元庚申歳」(1860)
南無阿弥陀佛塔「明和八辛卯歳」(1771)
(阿弥陀堂にあったものと思われる)