百 庚 申(沼田街道)


青面(しょうめん)金剛像・千庚申供養塔

 政淳寺の南へ120mほどの道路西側に、宝永3年(1706)11月吉日に造られた一面六臂(顔が一つで腕が六本)の青面金剛像と寛政11年(1799)3月吉日に造られた千庚申供養塔がある。どちらも庚申を祭るもので庚申塔という。60日に一度めぐってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして長寿や健康を願う信仰があり、これを守庚申とか、庚申待という。この信仰はもともとは、「人の体の中には三尸(さんし)の虫がいて、庚申の日には体から抜け出て、天の神様にその人の罪を告げて記録し生命を縮めようとしている。この三尸を制する方法は、庚申の夜を眠らずに守り、三尸が天の神様に罪を訴えることができないようにすることである。」という、昔、中国から伝わってきた道教の信仰からきたものである。
 守庚申は、平安時代には宮中などにおいて貴族の間で行われていたが、鎌倉時代には武士たちも行うようになった。中世の末からは、しだいに庶民の間にも広がり、江戸時代には全国的に広まっていった。それで昔は、庚申の日になると当番の家に集まり、一晩中寝ないで酒食をともにし、語り明かしたのである。これに基づいて、この夜は女人を避けるべきだとか、この日に結ばれてできた子供は泥棒になるなどという言い伝えがある。
 中世末、庚申信仰が庶民の間に広がったことにより、守庚申は庚申待に変わり、室町時代末期から庚申待の供養塔を建てることが流行しはじめた。江戸時代には庚申塔造りがたいへん盛んになり、特に60年に一度の庚申年にあたる寛政12年(1800)と万延元年(1860)には、たいへん多くの庚申塔が造られた。
 田口町にあるこの庚申塔も、今は一か所にまとめてたてられているが、昔は沼田街道の道わきに並べて建てられていて、ここ田口町以外にも、それぞれの町に数多くの庚申塔が残されている。


  
  桃川小学校かるた       絵・須藤玲子