田尻共同水車跡
 在地は田尻。組合員25人、木造平屋麦稈葺15坪、搗臼(つきうす)2斗張4個、挽臼(ひきうす)1個、割臼1個、製粉1式、銭輪の直径12尺、導水溝50間。江戸時代後期に建造、明治中期に改修、昭和25年(1950)タービン水車と新式の諸機械を導入した。(廃止時期不明)
田口の穀物加工水車
 昔は各家庭に精米用臼・製粉用臼があり人力で加工していた。穀物の消費が多くなり多量加工が必要になって、江戸時代後期各地に水車が建造された。田口の4ヶ所(※)の水車は明治及び大正時代に改修などが行われ稼働していたが、昭和22年(1947)のカスリーン台風での破壊や老朽化が進み廃止になり現存するものはない。
水車の状況は次のとおりであった。
(ア)法華沢・中沢川の流れを動力に利用し、自家食料を加工した。両川とも通水量が安定せず、特に夏季には水量が少なく銭輪(水輪)が回転しないことや、台風・雷雨の水害で使用できないこともあった。
(イ)水車は、組合員の出費で共有とした。水田反別割・家族人数割の基準により、出費や使用権を決めた。使用基準を2日・1日・半日使いとした(ひと月の内)。通常は毎月1日と15日を休日とした。
(ウ)構造は、銭輪の芯から十尺以上高い上流を堰き止め、導水して銭輪を回転させて動力を起こす。小屋の半分を精米所、半分を製粉所にした。精米、製粉は石臼で、回転部は欅、樫の木材、特に銭輪は松の適材を使用した。水車の製造、修理は全て田口の車大工の山口家で施工した。
(エ)水車使用時の注意は、電灯がなく、提灯、ローソクを使用したので、特に火災に注意するとともに、あわせて蛇や鼠の死骸、糞に注意した。夏は蛇や蚊の予防に線香持参、服装は機械に巻き込まれないような作業着とするなどの事項であった。

(※)(2) 田尻共同水車跡
    (29) 崖の共同水車跡(入田水車)
    (40) 中央共同加工所跡
    (43) 松久保水車跡
※他に桃ノ木川を利用した (7) 三四郎水車 があった。