橘 神 社
 この神社は、誉田別命(ほむたわけのみこと)(※)を祭神とする八幡宮であったが、明治40年(1907)3月に許可を得て、本社の境内末社(菅原神社・神明宮・大山祇(おおやまづみ)神社・愛宕神社)および、字諏訪の無格社諏訪神社、堂境内末社三社(琴平神社、厳島神社、石神社)、字冠木の無格社愛宕神社、同境内末社四社(琴平神社・菅原神社・石尊神社・大山祇神社)、字天神窪の無格社菅原神社、同境内末社三社(神明宮・厳島神社・大山祇神社)、字橘の無格社橘水分(みくまり)神社、同境内末社水神社、字砂押の無格社雷電神社を本社八幡宮に合併し、橘神社と改称して現在に及んでいる。祭日は4月15日、10月15日である。
本殿の裏には、伝説で知られるお社宮司様(おしゃぐっちゃま)の石宮がある。
 本殿は、昭和8年(1933)に改築、改築前の本殿は現在祓殿及び神輿収納所として使用している。
 なお、地元の人から福守様と呼ばれる性神は、水分神社ともいわれ境内の一段高いところに祀られている。
本殿の裏には、たくさんの石宮や道祖神の文字塔が見られる。
 また、境内には田口町公民館がある。
(※)第15代天皇の応神天皇、誉田別尊(ほむたわけのみこと)のことである。

福守神社(ふくもりじんじゃ)
 福守神社は、現在、鎮守橘神社の境内に祀られているが、水分神社ともいって、その昔、広桃両堰の引き入れ口の手枠に、偉大な男根(金精神)が引っかかっていたのを、人足が引き上げて小屋のかたわらに祀ったのが始まりといわれている。
 昔は、現在と違ってこうした男女の性に関しては、非常に神聖なものとして崇拝されていたものらしい。また、一説には、この御神体は洪水のときに、上流から流されてきたものであるとも伝えられている。
 前橋藩主松平大和守の家臣で富士見村小暮の石田某という堰方の士で広桃両堰の監督、人夫の指揮を命ぜられた武士が、つれづれに自分の刀で石の御神体を刻んで、併せ祀って水の安全を祈ったという。この御神体には石田氏と刻んである。
 なお、この他に大小奇形の御神体が祀られてあり、福運、子宝、婦人病平癒に効験があるとされ、今でも開運、子宝、縁結び祈願に参拝する人がいる。

福守小唄  作詞 塩原 洸

1、ハァーア
東赤城嶺 西には榛名
北にそびえる 子持の山は
町に幸せ 恵むよう
嫁に子宝 託すよに
ホラ 雲を抱きよせ 恋すよに
2、ハァーア
花も恥ずかし 福守様にゃ
人目偲んで 詣でる嫁は
そっと安産 祈るじゃないか
二振り三振りと 鈴ならす
ホラ 今度産む子は 男の子
3、ハァーア
苔をまとって 石宮いくつ
かかえ座します 福守様の
姿たくまし 男の操
あの娘この子も 育ちを託す
ホラ 福守やしろの 春祭り


雷電神社
 祭神は大雷命(火雷神 ほのいかづちのかみ)、明治40年3月に字砂押しから移されてものである。雷の災難除け、雨雨乞い、五穀豊穣を祈願する神様で、4月28日の例大祭の日に馬のわらじを借りてゆき、戸口に吊るし、翌年のお祭りのときに新しく作って返した。近年はわらじを作れる人がいなくなり、この風習もすたれてきた。



八幡宮絵図(明治4年)