かぶき
観音塚(山)古墳(冠木遺跡)

 民間開発による宅地造成に伴って平成16年12月から17年1月にかけて緊急調査され判明したものである。
 調査区内では4基の円墳が確認でき、その中で、1号墳(観音山古墳)は直径約22m、高さ4mにも及ぶ最大規模であった。墳丘中央から南東にかけての盗掘坑(明治9年の調査跡かは不明)と南西側で中世居館の堀跡で掘削を受けているが、大略の形状は推定でき、ほぼ良好な保存状況であった。しかし、北側に面する道路部分で一部基壇が損なわれていた。
 3号墳の墳丘は南北8.4m×束西6.4mの長円形を呈し、周堀を含めた規模は南北方向で12.8mをであり、西側で中世居館の堀跡により周堀が失われているため明らかにされてないが、東西方向の周堀間の距離は南北方向よりやや狭まるものと推定された。
 4号墳は東約半分を道路により削平され、また南側は建物基礎据付の際に大きく削り取られていたが、径11.5mほどの円墳であったと推定された。北および南では、墳丘裾部には地山削り出しの基壇状の平坦部が認められたが、西側には認められず、3号墳同様に南北にやや長いことと、周堀を含めて径18m程の規模であったと推定された。

 調査では、1号墳の主体部に初期横穴式石室の形態を認められた。また主体部の構築に、従来群馬県南西から埼玉県北西部に特徴的と考えられていた裏込被覆の手法を採り入れていたことも確認された。調査実施の3古墳とも石室構造からみて6世紀初頭から前半の年代と思われる。
 調査区中の1〜4号墳は、1号墳を中核とする古墳群であったと推定され、調査区の南半は宅地であったため、古墳の存在も考えられ、中核となる1号墳では横穴式石室を採用した上、堅牢な裏込被覆の主体部を構築できるほどの権力者の墳墓と考えられている。
 また、山頂には石造観音菩薩坐像があったが宝林寺境内に移転安置されている。
 冠木遺跡の古墳群は、豊富な利根川の河原石を利用できる地域にあって横穴式石室導入期における地方の権力構造を表していると思われる。

 上毛古墳綜覧の記録を基に作成された南橘村古墳分布図では、田口町には冠木遺跡を中心とする1群と、国道旧17号を挟んで東側に対峠する1群と2群の集中分布域がみられる。(古墳分布図参照)
国道東側の1群に塩原塚古墳があり、その年代から古墳時代後期後半から終末期初頭にかけての形成された古墳群と考えら、一方、冠木遺跡中には截石切組積石室を持つ古墳も認められることから、古墳時代後期初頭から終末期初頭にかけての形成と考えられている。

 なお、この地は駐車場になっており、今は見ることができない。


1号墳(南側から)

1号墳(北側から)

標柱は、宅地造成に伴って移設し、石と共にあいのた広場に暫定的に置いてある。
<参考文献>文化財調査報告書 前橋市教育委員会 平成16年度 第35集(平成23年4月田口町歴史散歩の会総会講演会資料)