ぼ た も ち 橋
 名前の云われは、正月の松飾用の松を採りに山(橘山か利根川沿いの松林等)へ行く際に、川で身を清め、水難除けも願って橋の上から川へぼた餅(カッパの好物はキュウリとぼた餅だったそうだ)を投げ入れた(捧げた)慣習からぼた餅橋と呼ばれるようになったと云われている。
公的記録では、「広桃用水」に掲載されている絵図(天明の浅間山大噴火(1783年)当時作成、用水の利用地域である伊勢崎領の農民たちが泥流除去、堰普請に来たときのものと思われる)には、「通路橋(つうじはし)」(※)と記されている。
 当時の桃ノ木川の川幅は10m超で現在のU字溝流れから想像できない。田植えの後など農耕馬を川に入れて洗ったり、子供たちの水泳等遊び場でもあった。国道から内島、向島を通って利根川へつながる道は「浦路(うらじ)」と云われていて、桃ノ木川に架けられた農道用の木橋で、当時は丸太で作られリヤカーが通れる程度の幅であった。
(47)広瀬桃ノ木用水の絵図を参照