沼 田 街 道
 沼田街道は江戸時代に沼田藩主の参勤交代路として、沼田から前橋へ通じる道路であり、物資の運搬路としても重要なものであった。赤城西麓の利根川左岸を通る東通りと、利根川右岸を通る西通りがあった。
 田口地内では、横室から赤坂を通り政淳寺前〜松並木跡を通り米野宿へと続く本街道と、田口新町〜十王広場〜郷倉を通り国道を渡り橘山の東松並木跡へと続く中通りと、橘山の南を通る川通りがあった。

沼田街道<東通り>
 沼田街道は、前橋市本町の八幡神社を起点とする。その後、岩神町の飛石稲荷神社の東を通過し、荒牧町の荒牧神社から東へ進み国道17号線を横切り、桃川小学校の前を通り桃ノ木川の橋を渡って日輪寺の西へ出たのである。日輪寺から桃ノ木川の左岸を北西方へ進み、川端町の西端で細か沢を渡り、関根町の北端を通って富士見町横室の沢口に出た。この辺りは明治40年(1910)の水害によって細か沢が氾濫し、その後耕地整理が行われ、昔の街道の面影はない。街道は横室の大カヤ(樹齢1,000年以上と推定されている)の西側へ出て、赤城山麓を徐々に登り田口の東を通り米野宿(富士見町米野)に至ったのである。


横室の大カヤを右に見て北進 四ツ塚線を横切り北進 赤坂橋を渡り田口へ入る

赤坂を登り天神窪方面へ 横室との境界を北へ 田口・米野線


東の広い畑が庄司原でこの辺りに松並木があった 大聖寺如意輪観音、ここから北が米野宿 米野宿

 
沼田街道<川通り>
 川通りという名称はなく、明治初年には清水越え往還と呼ばれていて、川通りというのは前橋藩の領内統治上の区分であって、文字通り利根川沿いの村々であった。
 駒形、前橋、下小出、荒牧、関根を経て田口に至り、橘山と箱田城山、真壁城山の東を通り、いったん利根川原に下り、八ア城跡から八ア宿に至る。宿は中央に水路が走り、両側に道路、旅館・商家がならんでいた。ここから川沿いの樽、宮田、猫(現敷島)を経るが、これらには宿場はなく、津久田に至って宿場があった。
 津久田から北は、赤城と子持の山麓が相接する綾戸の峡谷。烏山と呼ばれる川沿いを曲折して棚下宿に至る。ここから棚上の原に出て沼田街道に合流した。ここが難所であったために津久田から南雲宿に出るのが順路であったと思われる。

「富士見かるた」に米野宿が詠まれている。
 


<参考文献>
沼田・会津街道(昭和54年 群馬県教育委員会)
上州の諸街道(昭46みやま文庫)
富士見かるた
(富士見地区地域づくり協議会)