八幡遺跡
八幡I遺跡
〇歴史的環境
 八幡I遺跡から検出された主な遺構は、平安時代の住居址であり、覆土の中には、縄文土器の小片がみられた。
・縄文時代=隣接する富士見村では、横室、原之郷、時沢など標高150m前後の地域から、傾斜変換点である標高400〜450mの地域にまで、縄文時代の遺跡地が分布している。時期的に見ると、遺跡数は前期と中期に多く、赤城山南麓の一般的な傾向と同様に、早期・後期・晩期は少ないようである。
・弥生時代:八幡I遺跡の周辺地域では、弥生時代の遺構は検出されていない。富士見村の田中田遺跡では、中期前半の須和田式に比定されると思われる土器片が多数出土している。このことから、この周辺地域でも弥生時代の遺構の存在する可能性があるとされている。
・古墳時代:八幡I遺跡から、北東に約1000mの場所に、富士見村横室地区がある。この地区では、10基の古墳が存在している。八幡I遺跡の周囲で古墳が多く分布している地域は、白川沿いの富士見村原之郷・時沢・小沢・米野・山口の地区である。標高は150〜250mの範囲に多いが、米野から山口にかけては標高約400m付近まで分布している。
・奈良・平安時代=この時期の集落も古墳時代と同様に、縄文時代の遺跡同様な分布がみられる。周辺の標高150m〜450mまでの地域で遺物の散布が比較的密に分布している。赤城山の地蔵岳南面(標高1370m付近)にも散布が認められており、山岳信仰に関連する遺物と思われている。

〇遺構と遺物
検出された遺構は、竪穴式住居;吐14軒、古墳1基である。
住居吐は9世紀前半から11世紀初めにかけての平安時代が中心である。
古墳は残存状況が非常に悪く詳細については不明であるが、台地縁の南東に傾斜している地形に位置し、周堀は墳丘を巡って山側である北に馬蹄形状に掘削されており、山寄せ式の古墳と考えられる。このような斜面上の山寄せ式の古墳は隣接する富士見村においても見られている。
 出土遺物は全体的に流れ込みと思われる小破片が多く、住居吐に伴う遺物は少なかった。特に掘り込みが浅く残存状況の悪い住居吐では極端に少なかった。小破片は土師器が中心だが、縄文の破片も見られ、復元できたものは23個体にとどまった。

八幡II遺跡
〇遺構と遺物
検出された遺構は、竪穴住居祉24軒である。奈良時代〜平安にかけての竪穴住居吐であったが、そのうち1軒は平安時代の小鍛冶遺構であった。
 A区は八幡山の北東斜面にあたり、小鍛冶遺構1軒にとどまり、他の遺構は検出されなかった。

<参考文献>
田口八幡I遺跡・田口八幡II遺跡
平成12年3月 前橋市埋蔵文化財発掘調査団