田尻遺跡

 該遺跡の集落は、古墳時代前期の3世紀後半に集落の形成が始まり、4世紀をピークにして5世紀後半には集落が途絶え、その後7世紀から再び集落が形成されたことが明らかになっている。
 この集落空白期について、以下の事柄が想定されている。
5世紀代の前橋台地周辺の利根川流域では各地で大規模な氾濫が起き、下田尻遺跡の周辺である川端根岸遺跡などで洪水堆積物が低地や水路を覆っている。また、5世紀第4四半期頃から榛名火山の活動が開始し、有馬・渋川・伊香保噴火による火山災害が周辺各地に及んでいる。これらの火山活動によって生じた火山泥流堆積物は当時の利根川流路に達して、自然堤防を乗り越えた一部の堆積物は旧利根川流路である広瀬川低地帯にも及んだと考えられている。
 これらの河川災害によって広瀬川低地を開発した水田の大部分が被災し、集落の生産基盤となっていた地域が壊滅したことで集落の存続に長期間の空白期間を与えたことが想像される。
 古墳時代後半の集落空白期を経て、再び遺跡に集落が形成されたのは飛鳥時代に入ってからで、7~8世紀にかけて住居は微増の傾向にあった。特に7世紀代の住居は規模の大きなものが認められ、大家族による積極的な再開発が行われたと思われている。
 8世紀の集落で、竪穴住居は規模の小さなものが多く、まとまって住居が分布するといった特徴がみられる。9世紀になると竪穴住居の分布も地区全体に満遍なく広がりをもち、規模の大きな竪穴住居が点在するようになり、小~中規模の住居とともに大きさが混在しながら地区全体に広がりを有していた。
 10世紀代は集落内の竪穴住居の増加が著しく、住居のピークとなっている。9世紀前半の住居数に対して5倍以上の住居数であり、規模の大きな竪穴住居が重複して、一定の場所を確保しながら林立する様相を呈していた。
11世紀は、10世紀の住居増期から一転して竪穴住居が急激に数を減らし、竪穴住居に限っては7世紀の住居数と同じ規模までに数を減らしている。11世紀に残された住居は比較的規模の大きなものが認められるといった特徴があった。
 下田尻遺跡の集落内には鍛治遺構(製鉄炉)の存在が認められ、住居の廃屋を利用した鍛治工房で10世紀代と想定される。鍛治は小型自立炉の製鉄炉であった可能性が高く、9世紀中頃と考えられ。集落内で人口増を伴って行われた生業の一部は製鉄から鍛治工房といった鉄生産にかかわる産業が行われた可能性が高いと考えられている。
 上田尻遺跡と下田尻遺跡の集落は、7世紀の集落形成から11世紀の竪穴住居消失に至るまでの約500年間に遺跡の東西で集落の中心が移動し、集落域が東へ拡大するなどの変遷が明らかとなっている。このような集落域の変化は集落内部の人口増加や生業の変化などとともに政治的な外的要因が考えられている。また、下田尻遺跡と同様に利根川流路の右岸の微高地に位置する関根赤城遺跡や関根細ヶ沢遺跡でも下田尻遺跡と同様に10世紀代に急激な集落の拡大が認められ、このような集落拡大の要因の一つには下田尻遺跡や関根細ヶ沢遺跡で検出された製鉄関連遺構の存在に求められ、集落域での製鉄業が10世紀の遺跡拡大をもたらした要因の一つである可能性は極めて高いものと思われている。

遺跡から出土した施釉(せゆう)陶器(※1)について
 上田尻・下田尻遺跡からは多くの施釉陶器・灰釉(かいゆう)陶器(※2)、特に緑釉(りょくゆう)陶器(※3)は113点と群馬県内の出土例として5番目の数量であった。
 灰釉陶器の器種は、椀、深椀、輪花椀、皿、段皿、折縁皿、耳皿、小瓶、長頸壺、広口壺、平瓶がある。また、小破片のため器種の判断が器種も多く存在したが、これらも上記の器種に該当するとみられ、特殊な機種が存在する可能性は低く、大まかな比率では、椀・皿などの供膳具が9割、小瓶や長頸壺などの貯蔵具が1割であった。
 出土した施釉陶器は一般的な集落より数量、比率の面でかなり多く、こうした背景には日輪寺観音前遺跡のような富豪層の居宅とみられる区画溝や掘立柱建物群などの遺構の存在は確認されなかったが、近隣に富豪層が存在した可能性が高い。また、緑釉陶器をみると遺構外から小破片が多く出土している。これは、産地から輸送して緑釉陶器が途中で破損したため破棄した可能性がある。このことは当時運送を担っていた「僦馬(しゅうま)の党」(※4)の存在が窺え、上田尻・下田尻遺跡が僦馬の党の拠点集落であった可能性があるとされている。
 この集落の拡大は当時の社会情勢からみると富豪層による空閑地開発が行われる中で形成されたと考えられて、施釉陶器は富豪層によって「非日常の供膳具」よして導入されものが竪穴住居の庶民に再配分された結果と想定されている。

(※1)素地が土で、成形後、素焼きした後、釉薬を掛けて焼成したもの
(※2)平安時代に生産された、植物灰を使った施釉陶器
(※3)無色の基礎釉である鉛に、銅化合物を加えることで緑色に発色する釉をかけた古代の陶器
(※4)僦馬の党:平安時代に坂東で見られた自ら武装して租税等の運輸を業とする「僦馬」による集団を指す。彼ら自身も少なからず群盗行為(馬や荷の強奪)を行ったと云う。


<参考文献>田口下田尻遺跡 本文編 平29群馬県埋蔵文化財調査事業団