国 道

 県都を経由して北上する国道17号線は明治22年(1889)に開通し、下小出、上小出、荒牧、関根、田口を経て北橘村に入り渋川方面に通ずる道路である。
 昭和19年(1944)の路面改修によって完全舗装となり交通至便となった。
 なお、田口発電所付近から坂東橋にかけての直線道路は昭和25年(1950)頃バイパスとして建設された。

 また、平成22年(2010)4月に渋川バイパスが、平成29年(2017)3月に上武国道が開通し、上武国道立体交差から渋川半田間は国道291号線となった。
伊香保軌道線<前橋線>
 群馬の近代交通は明治中期、軌道による交通網の発達と普及で急速な発展を遂げることになった。その先鞭を切ったのが前橋と渋川を結ぶ馬車鉄道で、明治23年(1890)の開業で、馬車から電化への発展は明治43年(1910)に前橋で1府14県連合共進会(博覧会)開催を期に電化された。
 明治末期から大正時代を経て国鉄網も拡大すると、渋川と中之条・沼田方面への電気鉄道は姿を消し、昭和2年(1927)に東武鉄道が引き継いだ電気軌道は、前橋・高崎・伊香保の三線で、伊香保軌道線として整備された。
 前橋線は、国鉄前橋駅を起点に渋川新町までの16Km弱の行程を前橋駅、渋川新町駅を含めて29の停留所を結ぶ路線であっが、廃線時の昭和29年までには23の駅・停留所になっていた。
 戦後の混乱時代には買い出しや通勤通学で、昭和24年(1949)には創業以来の盛況でいつも超満員であったという。
 昭和28年(1953)、前橋市は都市復興計画を理由に市内の運転休止の要望を出し、同年1月には萩町からの折り返し運転となり、電車の廃止は時代の流れとなって、昭和29年2月28日、渋川駅から新町区間を残して廃止となった。残された区間も昭和31年伊香保線と併せて廃止となった。
 
   田口と橘山下を通る電車
 
停留所付近の様子(坂東橋〜大師入口)
【坂東橋】
 利根川を自動車と併用の鉄橋を渡ると、すぐに崖脇を大きく右にカーブし、そこに停留所があった。ここの東側に一軒の住宅があり、その家の前を掠(かす)めて通った。さらに軌道は切り立つ岩の崖下を(現国道東側)南へと走行していた。
【下箱田】
 岩崖西側を500mほど下ると数軒の家が建ち並び、その東側に交換所を設けた停留所があった。
【橘橋】
 続く岩場を左にしながら右に左へと周りこんで下ると、木曽神社入口の交差点南が停留所になっていた。その西と東側に家が数軒あった。軌道はさらに橋を渡り国道の東側を南へ進み、崖下を走行して田口方面へ向かう。なお、国道の項で触れたが、田口発電所付近から坂東橋にかけての直線道路は、昭和25年頃バイパスとして建設されたもので電車は走っていなかった。
【田口】
 岩場を左にカーブして右に曲がると交換所が現郵便局の東側付近があった。線路は単線であったため、上り下りのすれ違い用に停留所は2車線あり、また、ここには待合所の小屋があり、電話機も備えてあった。国道の西側には消防ポンプ小屋と火の見櫓があり、当時は富士見も含めた地域の交通の要所で、店(パチンコ屋、郵便局、下駄屋、薬屋、酒屋、魚屋、駄菓子屋、洋服屋、豆腐屋、経木屋(※1)、肥し屋、タバコ屋、塩屋(専売品)、せんべい屋等)が沢山あった。なお、馬車鉄道の時代には、馬車屋(※2)、荷鞍屋(※3)もあった。
(※1)へぎ:木材を薄く削ったもので、食べ物(饅頭、納豆、おにぎり等)を包むものとして用いた。
(※2)馬を交代させる交換所で、馬を養生させていたところ。
(※3)馬車を繋いだり、荷物を載せる鞍の修理などを扱っていたところ
【法華沢】
 田口の郵便局から南へ国道を下ると法華沢橋があり、その手前に停留所があった。道を挟んで両側に数軒の家があった。橋を渡って直進南下して田んぼを過ぎると、東側に田口変電所があって、前橋線へ給電していた。(当時の郵便局は現在地より南約80mにあった。)
【関根】
 変電所前を通り桃ノ木川を渡って100mほど進んだ地点に交換所があった。電柱に電話ボックスが付いていた。国道の西側に倉のある農家があった。
【荒牧】
 関根から出て左にカーブすると、一直線で南へ向かう。当時は両側には見渡す限りの田園が広がっていた。桃川小学校脇の交差点のところが停留所であった。
【大師入口】
 現在の南橘団地入口で国道が右にカーブしている手前に交換所があった。ここでは正月3日には毎年大師様の初詣客で大賑わいとなり、電車も臨時便を増発したが、乗客が長蛇の列でまっていた。
   下箱田と坂東橋を通る電車
 
<参考文献>
「思い出のチンチン電車 伊香保軌道線」(1998あかぎ出版)
「南橘村誌」勢多郡南橘村刊行 昭和30年3月