大 正 用 水
(ア)用水の起源
 赤城山南麓の広大な平地は大きな河川がなく干ばつもあり、古くから豊かな水田造りのための用水開削が試みられて、今にして残る「女堀」は中世に掘られた遺構と云われて、この女堀遺構が大正用水の前進と考えられる。
 大正用水の名は大正7年(1918)に県営事業として県議会一致の議決を見たことによる。
(イ)沿革
 明治32年(1899)薮塚本町の伏島近蔵氏の提唱により、勢多郡横野村大技樽地先より利根川から導水し、現大正用水より更に高位部を赤城山麓の西より南東に迂回し、新田郡笠懸村方向に導水せんとする計画も有った。
第1次世界大戦の頃から食料増産が強く叫ばれに及び、大正7年(1918)の大干ばつに遭遇し、県当局は世論を汲み、利水計画を樹立するため農林省技術官の派遣を請い、その調査結果に基づき、大正7年12月県議会一致により、県営事業として遂行議決を見たが、諸般の事情により延期となり実現に至らず。
 その後10余年の歳月を経て、昭和17年(1942)太平洋戦争の真只中に食糧増産の叫びに応え、1市3郡13か町村の団結により、昭和18年4月耕地整理組合を組織し用水補給計画の許に、翌19年7月農地開発営団により着工、翌年の田植えに間に合わせるとの突貫工事で1年後の20年8月(終戦)までに開削を完了したが、素掘り水路で、法華沢や細ケ沢を渡る水路は木製の樋いで漏水が甚だしく通水には不完全な用水路であった。
 工期1年の難事業で、工夫は地域農民、軍の他広く募集されたが、服役中の囚人、朝鮮半島からの人に加え勢多農、佐波農、利根農の三校から学徒動員があり、勢多・佐波農は夫々弁当持ちで自転車集合、利根農は桃川小学校を宿舎として出動したとのことであった。
終戦後農地開発営団は昭和22年(1947)9月に閉鎖機関に指定され、事後国営事業に移り、更に昭和25年4月に県営に移管となり現在に至っているが、昭和22年9月のカスリーン台風により壊滅的な被害を受けた。
 その後、暗渠水路や通水樋のコンクリート化等の改修を経て昭和27年(1952)3月に完成を見る。用水源は広瀬桃ノ木両用水及び天狗岩用水の合口事業である坂東大橋堰の引水を広桃水路約1km流下した国道橘橋付近で分水する。これは広桃用水の余剰水の利用である。
 該用水は坂東大堰用水路分水点(阪東橋北)を起点とし、伊勢崎早川終点まで24,238mを開削し、水路の勾配は1/2500である。その間に隧道7ヵ所(延長1,526m)、暗渠5か所(603m)、伏越5ヵ所(106m)、架樋18ヵ所(3,115m)があり、「上細井かるた」にも詠まれている。
利根川からの直接分水は下流域(埼玉、東京、千葉等)の水利権者との調整が短期間では困難なため、広桃両用水の余剰水扱いとされている。
(ウ)追想
 昭和30年(1955)代までは素掘りをした用水のままで、両岸は赤土(ローム層)で、用水の両脇上部に掘り出した土が、5m位の高さに積み上げられていたが、掘り起こした土の中には矢じり、土器片などがあった。田口には2ヵ所の隧道があり、掘り出した土石は現在のあいのた広場のところに山の様に積み上げられていた。
大正用水は子供たちの水浴びの場であり、赤土の土手での鬼ごっこ、つるつる滑って鬼と共に流れに落ちてしまう、楽しい遊び場だった。
 そして、“隧道くぐりは”暗闇の中で声を出すと壁が崩れるから黙ってそっと泳げと先輩に言われ、スリル満点な冒険水泳だった。やがて、素掘りの用水も三面コンクリートに改修され、河川の汚染も叫ばれる時代となり、水浴びをする姿はなくなった。
 また、掘り出された残土はその後桂萱地区のローズタウン造成に活用のため撤去され、用水脇は道路、空き地はあいのた広場となった。

「上細井かるた」に詠まれている。
<参考文献> 勢多郡誌(昭和33勢多郡誌編纂委員会)
「上細井かるた」(2022年 上細井町自治会)