藤 観 音 跡
 札所めぐりがさかんに行われるようになったのは、江戸時代の文化、文政期であった。最も知られているのは、四国霊場八十八か所めぐりだが、そのほかにも観音信仰も札所めぐりの名で行われていた。有名なのは西国三十三か所めぐり、坂東三十三か所めぐりなどがあるが、ここ勢多地域にも西勢多三十三か所観音めぐりというのがあった。みやま文庫「上州の観音札所」に、一番日輪寺から始まり三十三番徳沢荒井堂(富士見町時沢)で終わる観音めぐりで、三番田口塩原堂と記載されていた。本書によれば、そこは下田尻の塩原家墓地内で、その観音様は藤の木観音と呼ばれたとあり、その後寶林寺に納められたとされているが、確たる証拠は無いとあった。
 明治6年(1873)の絵図を見ると田口には4か所の観音(堂)があった。@下田尻の塩原墓地内、A上田尻の小池墓地内、B八幡470番地(公会堂から続く橘神社の参道を最初の石段を登った右側)、C字千手堂の観音堂(塩原登平畑内)以上4か所である。Bの場所は今でも大門と呼ばれている所で、寺(堂)の入口の門があったと考えられる。現在は、橘神社の所有地となっている。東、北隣りには塩原姓の屋敷があり観音様をお守りしたと思われる。以上により3番札所の塩原堂(藤木観音)はこの藤観音のことと考えられる。
 同書の中には観音様は寶林寺に納められたと書かれていたので、同寺で確認したところ、朽ちた一体の木造の仏像が安置されていたが藤の木観音かの確証は得られなかった。
このほかに田口には下田尻塩原家墓地内(ヒロタデザイン様南)と冠木小此木家墓地内(郵便局の西)に阿弥陀堂、冠木と間之田に薬師堂、冠木に十王堂があった。
下田尻の阿弥陀様(塩原家墓地)は明治22年(1889)県道(現国道17号)が開通したときに、観音堂のあった一家の塩原家墓地へ移された。現在でも阿弥陀様として信仰されている。