橘山・水分神社(福守神社)跡 |
田口町の北にある橘山(228m)は、信仰の山で、古くから伝わる伝説がある。 現在、田口の鎮守橘神社にまとめられた「橘水分(みくまり)神社」(※)はもとは、橘山にあり、お祀りしてある神様は、水分神と日本武尊(やまとたけるのみこと)の二つです。 水分神というのは、農業の神様で、むかしは、今のように用水路がよくできていなかったため、農作物を育てるための水を確保することがとても大切であった。それで神様にお祈りして、その力をお借りしたといわれている。近くを流れる利根川の水が溢れることもしぼしばあり、そんな時には神の怒りと思い、人々は、必死でお祈りをしたと思われる。農業の神様というのは、昔の人々にとってなくてはならない神様だったのである。 日本武尊は、12代景行天皇の皇子で、父天皇の命令で「九州の熊襲(くまそ)」(天皇の言うことをきかなかった人々)を征伐し、さらに、「東国の蝦夷(えぞ)」(東北地方に住んでいた人々)を征伐するために船で出かけたが、相模(神奈川県)の走水の沖(今の浦賀水道)まで来ると、海が荒れ、船は沈みそうになり、その時、妃の弟橘媛が海に身を投げて竜神の犠牲になり、武尊を救ったと云う。 武尊は、予定通りに東国を征伐して大任を果たしたが、その御心の内に唯一の憂いを残すのは、走水の海に身を投げた弟橘媛(おとたちばなひめ)のことだった。武尊が媛をしのばれた遺蹟は各地にあるが、橘山も武尊が、「橘媛恋し」と媛の冥福を祈った所だということで、「橘山」と言われるようになったといわれている。 また、中世における地方豪族の古城址でもある。 上野名跡誌によれば「伝説雑記に観応年中、上杉民部太夫憲顕、橘山に在城し是れ根城なるを以て家臣皆、妻子を橘山に置けり。云々」とあり、南北朝時代に於いて足利氏の執権、上杉民部大輔憲顕は上野国内に於いて15万石を領し、橘山に在城したと伝えられる。憲顕の家臣としては富士見村(現富士見町)原之郷に萩原左衛門佐、狩野右近、船津民部少輔の屋敷があり、川端には原田膳善之介、芳賀村峰には長尾四郎左衛門尉景興が始めて城を築いて住居したと云われている。 なお、山頂には国土地理院設置の基準点「二等三角点」(御影石製)(写真下)がある。 ※ 祭神:水分神、境内:50坪、境内末社:水神社(弥都波能売神) (写真上は片石山の山頂から撮影) |
桃川小学校かるた 絵・芝田沙織 |
(ア)橘山の生い立ち およそ300万年前、赤城山が噴火したおり、地下のマグマに水蒸気がたまって一気に爆発して、山の一部を吹き飛ばすほどの火砕流が発生し、このとき大小の破片になった山体は100〜200mといった巨大岩石と共に雪崩のように斜面を流れ下ったと考えられている。 山麓まで達した岩雪崩はここで流れを止め、運ばれてきた巨大岩塊中心に小山をつくることがあり、これが流山といわれるものである。 赤城山南西麓の利根川に架かる坂東橋付近の国道291号線沿いは大小数個の流山があり、その一つに橘山や城山などがある。 (イ)橘山の生き物 橘山は、標高200m余りの丘陵地のため、平地生の動物が多い。一部の鳥類にとっては渡りの際の重要な中継地となっている。トビ、ノスリ、カラス、コジュケイ、キジ、アカゲラ、セキレイ、モズ、シジュウカラ、ホオジロ、カケスなどこの地自生の鳥や、オオルリ、クロツグミ、カッコウ、センダイムシクイ、ホトトギスなどの渡り鳥も数多くみられる。 爬虫類ではアオダイショウ、ヤマカガシ、シマヘビ、カナヘビ(トカゲ)などが生息。 その他、夏にはニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシなどのにぎやかな鳴き声が聞こえ、平地生の蝶なども数多く見られる。 (ウ)橘山の木々 橘山は植林地が大部分を占めており、アカマツやクロマツがあったが松くい虫の被害に遇い絶滅状態であり、そのほかにはクヌギ、コナラ、ケヤキ、ヤマグリ、スギなどが見られる。 また、イヌザクラ(写真右:開花時期は4月下旬)という珍しい木もあり、西側の崖に自生しているアラカシ林は、オオバジャノヒゲ、アラカシ群集として位置づけられ県内では、ここの他、安中市の中宿などに小規模な植分がある。出現種数は17種ほどであるが、今や稀少になったアラカシ林は、原植生を裏付ける貴重な資料であり学術的にも貴重な存在となっている。 (エ)小石神社伝説 日本書紀によると日本武尊命(やまとたけるのみこと)が東国征伐の折、竜神の犠牲になった妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)の冥福を祈念したといわれ、そのとき橘山の頂上で腰をかけた石が「媛恋しい」の「恋しい石」と云われ、のちに「小石神社」となり、現在の小石神社(敷島町)のご神体と云われている。 (オ)福守(久々守)神社跡 地引帳に記載されている。(右1行目)と絵図。 |