十王広場(火の見、高札場跡)



 


昭和60年12月撮影

※火の見の右下にあるのが器具置き場です。

消防詰所(器具置き場)

昭和60年12月撮影

※場所は国道沿いにあって、写真は
  当時のもので、その後建て替えら
れています。        
  詰所は、令和5年3月道の駅へ移
転しました。        
 高札場とは、幕府や領主が決めた法令や約束ごとなどを木の板札に書き、通行量が多く人目をひくように高く掲げておく場所のことで、田口にもあった。
 火の見櫓は火事や洪水を警戒したり、火災のときは出火場所の方向や距離などを見定めるために登る櫓で、櫓上には半鐘が設置されていて、これを打ち鳴らして火事を知らせた。鐘の打ち方で、火元との距離感がわかるよう工夫されていた。火元が近い場合は「ジャンジャン打ち」といって鐘を連打した。当時の鐘の一つが、ほたる街道沿いの橋昭一氏宅の屋敷に残っている。(写真右)
 昭和22年には近隣の村に先駆けて「消防用ガソリンポンプ」購入し。総経費25万円、戦後の混乱期の中で消防への信頼を高め、火災の不安を軽くしたした効果は大きく、また、近村の火災発生にも威力を発揮したと云う。火の見櫓は昭和62年頃まであった。
 また、いつの火災かは不明であるが、そのころの消防の動きを「田口文集U」(平成26年)に25組の塩原久美さんが記されていた。(当該部分を抜粋)
『田口で大きな火事があり、消防ポンプを引っ張り現場へ駆けつけたが、近くに水が無い(冬で大正用水も桃ノ木川も断水状態)、桃ノ木川は馬車屋の隣とぼたもち橋近くに水たまりがあるのを知っていたので、田口班は馬車屋横へ、後から来た関根班はぼたもち橋近くへホースを入れた。前橋や富士見からもポンプが来たが、どこに水場があるか判らず往生した。また電話も普及していなかったので郵便局へ走り、消防署へ電話してもらったことを思い出す。これをきっかけとして水場の無い地区へ防火用水を備えた。(八幡、天神窪、東北に4箇所ある)』