田 口 簗 跡
その歴史は古く、旧藩時代前橋藩において諸種の行事に利用され、その後明治、大正、昭和の初めまで、伊香保行楽の人や政界、財界の名士、文人等が来遊したと云う。 昭和28年(1953)に、発電所工事に伴う水路変更によって廃業になった。 標識柱の横には、アララギ派歌人半田良平(※)が昭和15年(1940)8月21日に田口簗を訪れた際に詠んだ歌が書かれている。 「簗の簀(すのこ)に打ち上げられて来る鮎を待つ間は楽し座敷にありて」 歌が他にもありました。 「池に飼ふ二三百の鮎一方に頭を向けて動かぬ時あり」 「ゆたかなる水の流れを簗に堰き更に座敷の下をゆかしむ」 「川の上の座敷にすわりゐる吾の眼と平かに水ながれ来る」 「わがすわる座敷の下をゆく水の音こそなけれ身にひびくもの」 「塩焼の次に魚田の鮎を食ひ水を眺めて飽くとせなくに」 「今日のわが奢りといへど白飯と数匹の鮎の料理にて足る」 ※半田良平 明治20年(1887)〜昭和20年(1945)深津(栃木県鹿沼市)出身。宇都宮中学、旧制第二高等学校を経て東京帝国大学を卒業後、中学の英語教師のかたわら短歌結社「国民文学」の中心人物として短歌・評論など幅広く活躍した。 当時の田口簗(後方の小高い山が橘山と思われる。) |