薬 師 如 来
 田口町字新町の桃ノ木川の西側に両手で薬つぼを持った形の薬師如来が、塩原慎斎の筆子塚と並んで安置されている。文化2年(1805)11月に造られたもので、石像の土台には、「薬師講・新町中・田口村中・関根村中・荒牧村・横室村・真壁村・米野村・中箱田村・下箱田村・川端村」等の銘があり、近辺の村々から広く信仰されていたことがわかる。
 この薬師様は「やん目」の仏様といわれ、目の病気にかかったときは、薬師様にお参りしてお願いすると治ったということである。今のように、すぐ医者に診てもらう、ということができない時代、この薬師様の力におすがりしていたと思われる。そして病気が治ると、お礼におかけをかけたり、紙に「め」という字を二つかき、薬師様に貼ったりしたという。
 薬師様のお祭りは4月8日で、昭和の初めころの子供たちは、お祭りの前日に、田口や関根の家々をまわり、「つらぬき」とよばれるお金を集め、そのお金でお菓子を買ったり、また自分たちでおでんなどを作ったりして、お参りに来る人たちにふるまったということである。このお祭りは昭和40年(1965)頃まで続いていたが、交通量が増えたことなどから、今では行われていない。
 この薬師様は、以前は三方辻の中央にあったが、ある時、宝林寺に納めることになり、村民が大勢で運んだが、この土地を離れるのを悲しんでとても重くなり、何かと思いがけない災難が続いた。村民たちは、これは薬師様の祟りに違いないと思って、元の位置に移したところ、今度は軽くなり、簡単に戻ってしまったと伝えられている。


塩原慎斎の筆子塚
 嘉永5年(1852)8月に、塩原慎斎の弟子が師匠のために建てた石碑である。
慎斎は文化3年(1806)に田口に生まれ、江戸に出て医学を研究していたが、書道にも優れていた。帰郷して田口に医を開業し、そのかたわら近隣の人々の願いによって、寺子屋を開き弟子の教育を行った。慎斎は弟子に対しても我が子のように深い愛情を持って指導したので、老若を問わず「お師匠様」の愛称で通ったといわれている。多くの弟子たちの中には、北橘村や富士見村の人もいたという。
 筆子塚は弟子たちの建立したものであるが、事前にお師匠様に知られてはお叱りを受けるので、無断で造り碑文をお師匠様にお願いしたところ、さすがの慎斎も弟子たちの熱心な気持ちに動かされ、碑銘は自らの筆をふるったそうである。その台石には弟子たちの名が連記されている。
 碑銘は、竜海院の住職から授与されたという、慎斎の戒名(賢良院漌隆慎斎醫士)であり、住職が難病にかかったおり、ほうぼうの医者に診てもらったがいっこうに良くならず、評判を聞いて慎斎のもとを訪れ、慎斎が、寝食を忘れるほど熱心にお世話をしたところ、病気はすっかり治り、そのお礼に戒名を授与されたのだそうである。竜海院は、前橋藩の寺として格式の高い寺で、そこの住職から、しかも生きているうちに戒名を授与されるなどということは、普通の人には考えられないことであった。
 国道沿いの塩原家の墓地に、慎斎も眠っている。そこにある慎斎の石塔は、「お師匠様」と慕われていた人柄をあらわしているかのように、円い筒の形をしている。周りには、慎斎の戒名と5人の奥さんの名前が刻まれている。

 慎斎のひ孫にあたる塩原真資さんが、五人の奥さんのことについて次のように話してくれていた。
 「慎斎じいさんというのは、大変慈悲深い人だったそうです。それで、病気の女の人を引き取っては、奥さんのようにして面倒を見ていたんでしょう。石塔を調べてみたら、みんな、2、3年とか4、5年で亡くなっているんです。」
こんなところにも、慎斎の人柄がうかがえる。

 慎斎の子真道も、医者として父の跡を継ぎ二代にわたって医者になった。真道は、医者のいなかった吾妻郡の沢渡温泉に診療所を開き、山奥の辺ぴな所だったので地元の人から大変感謝され、「塩原先生」と慕われていたという。また、家伝薬の「鎮写散」という腹薬を作っていて、赤痢によく効くということで、県内のあちこちからわざわざ買いに来る人がいたといい、戦争中は、戦地に行く兵隊が持って行ったという。


  
  桃川小学校かるた        絵・新井一希                慎斎の生家