田口住民の苗字
田口の苗字(明治21年) 自治会事務所に明治21年(1888)5月8日付けの田口村々会規約書(現在の自治会会則のようなもの)が保管されていた。 明治22年に南勢多郡南橘村が発足するが、聯(連)合会議員の記述があることにより、日輪寺聯(連)合時代のものと思われる。その中に当時田口村に住んでいた99名の戸主(世帯主)の署名があり27の苗字があった。 多い順に、塩原27戸、岩ア8戸、小池7戸、須川6戸、砂川5戸、竹内5戸、芝田5戸、萩原4戸、天野4戸、橋3戸、大島3戸、下田3戸、金子2戸、島田2戸、伊能2戸、吉野2戸、以下各1戸で、荏原、藤井、柳田、宮下、塩ア、田中、小此木、青木、稲葉、伊藤、市之郷となっていて、ほとんどの苗字が現在に受け継がれている。 なお、署名の中に、市之郷倭四郎という田口にはない苗字の人がいたが、田口小学校の教員を務めた後に桃川尋常高等小学校の校長を務めた人で、当時田口村に居住していた。 これらの苗字がいつごろから使用されていたかは定かでない。江戸時代に苗字を名乗れるのは貴族や武士の特権で、庶民が苗字を名乗るのは禁止されていた。田口村の塩原姓は藤原氏の流れをくみ、室町時代に先祖の3人兄弟が同地に土着したのが塩原家の始まりとされ、三つの家系があると云われている。 江戸時代の古文書を見ると、川通り田口村名主及右衛門(文久2年文書)、田口村名主右ヱ門(慶応元年文書)のように名主でも苗字を使っていない。最初に苗字が出てくるのは、川通り田口村名主下田五郎兵衛(明治2年)、田口村名主塩原佐平(明治3年)というように明治になってからである。 明治3年(1870)9月19日に戸籍整理のため「平民苗字許可令」という太政官布告(だじょうかんふこく)により庶民も苗字を名乗ることが許された。(9月19日は苗字の日) 連合(聯合) (署名者) 聯合会議員 塩原登平、塩原平次郎、塩原佐平 村会議員 岩ア安造、橋伴七、大嶋茂平治、小池浪三郎 塩原萬平、塩原清治郎、塩原禎治郎、砂川近吉 会員 88名 |