田口町の伝統行事や子供たちの遊び等

(ア)どんどん焼き(どんど焼き
 どんどん焼きは、正月行事で飾られた門松等を家々から集めて燃やす行事で、昭和20年頃までは町内の地区ごとに行われていた。
「天神窪地区」では、米野道と旧米野道が合流する雷電神社跡東の旧米野道跡(当時は窪地で草地)に長い青竹を束ね、竪穴住居風に立てて周囲を風除けに藁で囲み、中には集めた門松等の飾り物を入れ、真ん中に囲炉裏風に穴を掘った。
1月14日には上級生が泊まり、15日の早朝に泊まりの子が地区内へどんどん小屋が燃えますよと走って告げてから燃やした。子供たちは残り火で餅を焼いて食べた。
「東北地区」では、ほたる街道の南面の防火用水辺りで同様に実施していた。
火事等への心配もあり行事は一時中断されていたが、安全面等を考慮し地域の消防車が待機しての再開、法華沢南の休耕田1か所に統合し、現在も継続されている。

砂川和四郎さんがどんどん焼きについて語られていた。(昭和59年(1984)1月26日)
 『田口町では、古くからどんどん焼きが行われていました。私が小さいときからやっていましたが、それより前からやられていたようです。
 田口のどんどん焼きは、小正月14日の早朝に行われました。私たちが子どものころは、子どもが中心になり大人は手を出しませんでした。小屋を作るのも上級生が先にたってやりました。竹、松、杉などをもらいにいくのも全部子どもの仕事でした。どんどん焼きの行事は男の子の行事だったので、女の子は参加することができませんでした。
 どんどん焼きで燃やす、お札、だるま、松飾りなどを集めるのも子どもたちでやりました。そのとき、お金ももらいました。その年にお祝い事のあった家からは、たくさんお金をもらいました。集めたお金が少ないときには、「つらぬき」といって、通る人の足をとめてお金をもらいました。そのお金で、みかん、おかし、こんにゃく(おでんをつくる)などを買いました。
 小屋は、各組ごとに6畳位の小屋を作りました。竹を骨組みにして、その周りを松、杉、わらなどで囲んで作りました。冷たい北風が小屋に吹き付けても、小屋に入ると寒くありませんでした。
 13日の夜は、小屋に泊まって寝ないで番をしました。ほかの地区から、小屋に火をつけに来たり、小屋を壊しに来たりするのを見張るためです。一晩中起きていて、飲み食いをして楽しみました。
 14日の早朝に火をつけ、持ち寄った餅 (もち)、繭玉(まゆだま)などをどんどん焼きの火であぶって食べました。どんどん焼きで焼いた餅を食べると、その年はかぜをひいたり、病気にかかったりしないといわれていました。また、お尻を出して火にあててたたくと厄除けになるといわれました。
 このどんどん焼きは、戦争が始まるころまで行われていましたが、戦争中にとぎれ、戦争が終わったあとから昭和30年ころまでやっていました。その後ずっと途切れていましたが、3、4年前から田口町の育成会が中心になって、また行われるようになりました。』
 
 「どんどん焼き」、「どんど焼き」どちら? 地域によって異なるようですが、ウィキペディアに詳しく書いてありましたので興味のある方はご覧ください。

平成28年に行われた「どんど焼き」

  どんど焼き(動画)
 
(イ)節分(まめまき)
 大豆の脱殻で煎った大豆(福豆)を子供たちは「福は内、福は内、鬼は外、鬼は外」と言って居間、台所、玄関などにまき、ヒイラギの小枝に焼いたイワシの頭を刺して玄関に飾っておくと、「田畑を荒らす悪虫を封じるとか、鬼や災いを追い払う」と云われている。
 また、豆を保存しておき、初雷の日に庭にまくと落雷除けになると云われている。
 
(ウ)天神講
 名前の云われは、天神講は学問の神様菅原道真の命日に行われている天満宮の祭りに因んで、子供達の健やかな成長と学業成就を願って始められた行事と思われる。
 2月25日の道真の命日に、地区の子供達が代表の家に夫々米を持ち寄って集まり、子供達が夕食を共に食べて親交を深めた。
 夕食の後には、恒例の度胸試しがあって、子供3〜5人を組として暗闇の中でのお墓巡り、天神窪地区では、お寺の墓→金子家の墓→塩原家の墓→須川家の墓と廻った。「ヒト玉が出るから気をつけろ」等おびやかされたりした。当時の墓は竹藪など木が繁っていて暗くて怖かった。そんな中で、上級生が暗闇に隠れていて、ガサガサと音をたてたり、急に飛び出してきたりと大変怖い行事だった。現在は行われていない。


(エ)桃の節句(ひな祭り)
 女の子の節句とも云われ、2月下旬頃から縁起の良い日をみてひな人形を飾った。今のようにセットになっているものでなく、女児の初節句にはひな人形を贈る風習があって、親戚などから贈られたひな人形を飾った。そして、三色のひし餅(紅、白、緑(ヨモギ入り))をついて供え、3日の朝には油揚げずしやのり巻きを作り祝った。
 また、節句の終了後はすみやかに片付けないと「嫁入りが遅くなる」と云われた。
(写真右は昭和30年のひな飾り)

 
(オ)学神祭(写真上)
 4月第一日曜日橘神社にて、新入学児童生徒の学業成就・安全祈願祭が行われている。
 これは田口町独特なもので、小学1年生と中学1年生がそれぞれ在学の間、健康で安全に通学、勉学にいそしむことができるように祈願するものである。


(カ)端午の節句
 今は子供の日といわれるが、男の子の初節句を祝い成長を願う日で、青い空に鯉のぼりを揚げ室内には武者人形を飾った。戸口の屋根にはヨモギとショウブをさし、夜にはショウブ湯に入った。ショウブの強い香りが邪気を払うとされ、子供の成長、健康を願うものであった。


(キ)七夕
 田口では月遅れの8月7日に行った。6日採取した新竹に5色の紙で短冊を作り、七夕、天の川などと文字を書き入れ竹に付け、色紙を重ね折りして切れ目を入れ開くと「網」と呼ぶ飾りができ、これを最上部につけた。これを玄関などに飾り晩には中沢川へ流した。


(ク)お盆(盆棚、精霊棚)(写真右)
 作り方は宗派や家々によって多少の違いがあるようであるが、近年では盆棚を作る家はだいぶ少なくなった。木枠の棚がすでにある場合はそれを組み立て、四隅に新竹を立て真菰縄(※1)を張り、その縄に杉葉、ホオズキを吊るし、台に真菰茣蓙(※2)を敷いて仏壇から出した位牌等をならべる。キュウリやナスに篠などの足を付けた精霊馬、精霊牛を作り、ハスの葉やサトイモの葉を敷いて飾った。飾り物などそれぞれに意味合いがあるがここでは省く。また、新盆の場合は少し異なる。
 13日は迎え盆で、菩提寺へ盆迎えに行き、帰りに庭先で麦わらの小束を燃やして迎え火をして仏を迎え、この火で線香に火をつけ盆棚にあげ、ぼたもちなどを供えた。16日は送り盆で、このときも麦わらの小束を燃やして送り火をした。このときに「ネブツ、ハレモン、デキンナ」と言って火に尻を向けて、尻を2、3回叩くとできもの、はれものができないと云われていた。
(※1)真菰縄(まこもなわ):チガヤで綯(な)ったものが使われることが多い。
(※2)真菰茣蓙(まこもござ):近年はイグサの茣蓙を用いている。


(ケ)十五夜
 旧暦の8月15日の月祭りで、5本のススキを花瓶にさし、月見団子、カキ、クリなど縁側に飾った。昔は供え物を盗ってもよいとされていて、子供たちは竹竿の先に釘を付けて供え物に手をだしていたが、盗みは悪いことで今はなくなった。


(コ)十日夜(とうかんや)
 旧暦10月10日の行われていた収穫祭の一つである。子供達が稲藁50〜60cmを束ねて縄で巻き、環状の把手を付けたわら鉄砲を作り、「とうかん夜とうかん夜、10日の晩にや寝えらんねえー」(地域によっては「十日夜はいいもんだ。朝そば切りに昼ダンゴ、夕飯食っちゃぶたたけ」と言いながらわら鉄砲で地面を叩いて廻る(地面の神を励ますためとも、作物を傷めるモグラを追い払うためとも云われた)、廻りながら近所の柿を失敬したりした、子供なりに楽しい遊びだった。この日は、餅やそば切等を作り月に供えていたが、新暦となり月への供えも無くなり現在は行われていない。
(写真右のわら鉄砲は清里地区のものです。)

(サ)稲荷祭り(屋敷稲荷)
 1年間家を守ってくれた神様に感謝を伝える行事。昔は稲わらでお宮を作っていた家が多かったが、近年ほとんどが石宮になっている。11月23日お宮を掃除清め、篠と半紙で作った「オンベロ」(御幣)(写真左)を稲荷、神棚、台所、トイレ、道祖神(猿田彦大神)などに捧げ、夕食には赤飯、けんちん汁などを作り、稲荷様に赤飯、イワシ(生)、御神酒を供えた。
 供え物をして帰るとき振り返ってはいけないとされ、翌朝供え物がなくなっていると縁起が良いよと云われている。
(シ)餅つき
 12月28日または30日に朝早くから餅米をふかして石臼やケヤキの臼で餅をつき、お供え餅、のし餅を正月用として、子供たちのためにあんぴん餅も作った。30日までには、供え餅を神棚、床の間、恵比寿大黒様、仏壇に供え正月の準備をした。
 また、年の暮れには餅をつかない(塩原家の一部)や、鏡開きまでは里芋、ゴボウ、豆腐、油揚げを食べてはいけない(岩ア家)という食物禁忌があった。
 食物禁忌は、勢多郡誌によれば田口村の岩ア家(牛蒡、里芋)、金子家(正月里芋不食)と記されているが、これらの特徴は一村における旧族、土着の大氏族に多いと思われる。


(ス)映写会
 現代のようにマスメディアが普及していなかった昭和20年代〜30年代初めの頃は、映画館へ行くのも遠くお金も掛かるので、子供会や青年団等が呼びかけて映写会が行われた。場所は公会堂、宝林寺境内、神社の境内等だった。二十四の瞳など母子物で涙を誘うものやチャンバラ物を観た楽しい思い出である。


(セ)子供たちの遊び(昭和30年代)
 ゲーム機などなかった時代の子供たちが遊んだもの。具体的な遊び方などはここでは省く。
 男の子は普段から二つ折りの小型ナイフ(肥後ナイフ)を持っていて、次に掲げる遊び道具などを作るときに使用していたが、昭和35年に社会党党首の浅沼稲次郎氏が刺殺され、「刃物を持たない運動」が始まり、その後は持ち歩かないようになった。
・スギ鉄砲 ・紙鉄砲 ・水鉄砲 ・ゴム鉄砲(パチンコ) ・竹とんぼ ・坂落とし車 ・魚釣り ・ぶっちめ(スズメ捕り) ・ドジョウ、ザリガニ捕り ・おき針(うなぎ捕り) ・落とし穴 ・竹馬 ・缶馬(パッコン) ・チャンバラ ・ぶっつけ(めんこ) ・お手玉 ・おはじき ・あやとり ・かるた ・トランプ ・すごろく ・福笑い ・石けり ・縄跳び ・ゴム跳び ・缶蹴り ・ビー玉 ・ベーゴマ ・釘刺し ・ドッジボール ・自転車三角乗り ・ゴム飛行機 ・リム転がし ・凧あげ(手作り)・胴(長)馬跳び ・虫捕り(カブトムシ、クワガタムシ、セミ、トンボ、キリギリス等) ・小動物(ウサギ、ハツカネズミ、ドジョウ、フナ、ザリガニ、キリギリス等)の飼育等々であった。


(ソ)子供の食べ物(おやつ)
 上に掲げた遊びに夢中になっていた子供たちが、合間に食べたもの。そのものが遊びだったものもある。
・桑の実(どどめ)・・・竹の筒に入れて桑の木の棒で突いて、ジュースにして飲んだ。とても美味しかったが、口の周りやシャツが紫色になり、親に叱られた。「桑は大切なもので、木を痛めるからドドメ採りをするな」と言われていた。
・しばこ・・・チガヤの花のまだ穂の開いていないものを「しばこ」といい、穂を抜き取って皮をむき真白な花芯をよく噛んで食べた。ほんのり甘味があって大人は見向きもしないが子供たちはよく食べた。色の変わったものはヘビといって食べなかった。
・カキ、イチジク、ユスラウメ、ビワ、木いちご、グミ、クリ、ザクロなど。
・乾燥イモ(切り干し)・・・ふかしたサツマイモ(傷ついたものや、細く根に近い部分)を輪切りにして、蚕の籠に並べて干したものであるが、ポケットに入れ遊びながら食べた。乾燥が終る頃にはほとんど食べてしまい、親に叱られた。
・青梅・・・青いのは青酸カリがあって毒だと云われていて、なるべく色の付いたのを食べたが、青いのは塩を付ければ大丈夫と言われ塩を付けて食べた。
・アメ玉・・・昭和20年代は1個50銭だった。当時キャラメルも有ったが子供には高くて買えなかった。なお、まもなく50銭は廃止され1円が最小通貨となった。
サツマイモからイモアメを作る農家も有った(美味しかった)、戦時中に学徒動員で軍需工場へ行っていた人が、休みの日に家に帰り、イモアメを寮へ持ち帰るのを仲間が楽しみにしていたという話もあった。
・梅シャブリ・・・夏にタケノコの皮に梅酢に漬かっている梅を包み、その合わせ目をしゃぶって梅の汁を吸った(夏の塩分補給だったのかも)。タケノコの皮が赤紫に変わるのを楽しんだ。
・きゅうり味噌・・・大きくなったキュウリを半分にして、種を削り取って其処に味噌を入れて食べた。(今では酒の肴に合う。)
・ナスの塩もみ・・・大きなナスを立てに8等分位に切り込みを入れ、そこに塩を入れ手でぐにゃぐにゃと廻しながら揉むと塩が馴染み柔らかくなって旨かった。(これも酒の肴によい。)
・夏になるとアイスキャンデー屋が自転車で、チリンチリンと鐘を鳴らし売りに来ていた。1本5〜10円位で冷たく美味だった。
・トマト・・・少し赤くなった位で熟していなく青臭いトマトに塩を付けて食べた。
・ふかしまんじゅう・・・農休み、お蚕(こ)上げ祝い時に作られた。
・餅・・・1月にはよく食べた。


(タ)子供の仕事(家の手伝い)
 当時の子供たちは遊びもしたが家の手伝いもよくした。
・田畑の草刈り、草むしり
・田畑の耕し
・木の葉(落ち葉)かき
・ウサギ飼い(飼うときはペットだが、毛皮を使うため業者が買取りに来ていた。)
・タケノコの皮拾い(草履を編んだり、おにぎりなどを包むのに使った。)
・田植えの綱張り、麦踏み、米麦の刈り取り、脱穀補助
・養蚕の補助


(チ)食材等
 昭和30年代ころまでは、現在のようなスーパーマーケットはなく、自家製や小売店で購入、乾物や置き薬などは行商が来ていた。
・酒(ドブロク)(少数であるが作っていた人がいたと云う。)
・味噌、しょうゆ(自家製が多かった。)
・塩・・・専売品で、大友屋で売っていた。
・砂糖・・・橘屋で売っていた。
・豆腐・・・豆腐屋が2軒あり、そこへ小鍋を持って買いに行った。2軒の豆腐屋が無くなってからは、荒牧の方から豆腐屋さんが自転車で「プープー」(とーふーと聞こえた)とラッパを鳴らして売りに来ていた。