水 害 に つ い て
 昭和22年(1947)、キャサリン台風(カスリーン台風)の襲来による赤城山麓を中心とした降雨は357.4cm前後の雨量を伴い、赤城水系の河川の氾濫となった。法華沢は字松久保(松窪)地先より字宮田に氾濫して流失あるいは埋没、冠水した被害等合わせて約6町の範囲に及んだが、家屋の浸水は十数戸であった。
 時を同じくして中沢川が氾濫し、川沿いの水田は埋没あるいは畦畔が決壊し、地勢的には被害が僅少であったが、その畦畔決壊による稲作の埋没被害は甚大なものであった。なお、これに伴って下流における浸水家屋が続出し、村内各部落よりの救援と共に鋭意その復旧が行われた。
 法華沢と共に中沢川は出水の都度水禍に悩まされたが、昭和29年(1954)2月に農道救修による救農土木工事として総工費130万円、延べ人員3,150人、延長1,450mが着工され、同年4月に完成した。これと前後して上流中沢川の護岸補強改修も合わせ成って水防の態勢が確立した。

 水害の様子を「田口文集U」(平成26年)に3人の方が綴られていました。(当該部分抜を抜粋)
〇25組 塩原久美さん
 カスリーン台風の時だったか私は消防団長をしていて、法華沢が溢れそうだとの事で、区長の和一さんより呼ばれ、八幡山(橘神社)前の大正用水隧道出口へ行った。当時は法華沢を越える橋は木製の樋で、法華沢の水が樋まで来ると流れてしまうので、防がなければと竹竿や杭を持って行ったが、みるみる増水し樋が流されるとの判断で、区長よりジャンジャン打ちだと言われ「火の見櫓」へ走る。途中柳田自転車屋で自転車を借りて走った。火の見櫓に登りジャンジャン打ちをして戻ると、自転車屋の辺りはもう水浸しとなり近づけない、大正用水の樋が流され、途中につかえて其処が堰のようになり法華沢が溢れてしまい、周りの田圃が湖のようになってしまった。

〇31組 小池吉江さん
 篠突くような雨が降り続いた9月15日、お蚕が庭休みで暇ができたので青年団の役員会議にいくため、友人の家の縁側で待っていました。午後2時頃だったと思うが、赤城南麓に降り続いた雨が、白川に集中し大水に耐え切れず右岸が決壊したのは後で判った。
 何かセド(裏の方)で大きな石が転がるような音がしたのと同時に濁流が襲い、家が流れ始めました。私は縁側の柱につかまり前を見ると、嫁姉さんが流れて行くのが見えたので、そばにあった棒を差し出し引っ張って縁側に乗せた。二人で震えながら助けを求めて叫んだ。叫び続けながら家ごと流され、周りを見ると助けてくれと、絶叫しながら濁流に飲み込まれる人が何人もいたが、どうすることも出来なかった。
 私たちはもう駄目かと思ったが、姉さんと励まし合うことで心細さも半減できた。1km位流された家も潰れ瓦礫の中で止まったが、周りは今テレビで見る東日本大震災のの津波の跡のようだった。

〇6組 石平嘉二さん
 降り続いた雨も小降りになり、父親に「タバコを買って来てくれ」と頼まれ近くのたばこ屋でタバコを買って店を出ようとしたところ、店にいた同級生に将棋を指そうと誘われたが、父親に頼まれたタバコを家に置いてから将棋を指すことを約束して、店を出て家に帰り同級生の家に行こうと家を出たとき、北の方から口では表せないような、大きな地鳴りと石が転がって来るような轟音と同時に濁流が、家の前を人や家屋を飲み込みながら流れて行くのが見えたが、どうすることも出来ずただ恐怖で茫然と立ち尽くすだけだった、まるで地獄絵を見ているようでした。
 暫くして我に返りたばこ屋と同級生が心配になり、高台に上がり店の方を見たが、たばこ屋のあった所は谷間となり、家も竹藪も何もかも地上にあるあらゆる物を流してしまったのです。